【1】
彼女の名前はリザレリス・メアリー・ブラッドヘルム。
この国〔ブラッドヘルム〕の建国者である伝説の吸血鬼ヴェスペリオ・リヒャルト・ブラッドヘルム王を父に持つ、吸血鬼のプリンセスである。
かつてブラッドヘルム王からプリンセス・ロイヤルの称号も与えられているリザレリスは、まさしく正統なる終身の吸血姫だ。
「あ、あのぉ......」
気がつけば舞台衣装のような宮廷ドレスにティアラまで被せられ、促されるがままに玉座へ座らされていたリザレリスは、ひたすら当惑していた。
彼女の眼前には真紅の絨毯が川のように伸び、それを挟んで城の者たちがズラッと総出で片膝をついている。
数段高い玉座から、彼女が彼らを見下ろす光景は、まさに王女と家来たちの構図といったところだ。
ただし家来たちに、それを強制されたような様子は微塵もうかがえない。むしろ抑えきれない王女殿下への拝謁の喜びを堪えているように見える。
というのも......。
ついさっきまで、城中てんやわんやの大騒ぎとなっていたからだ。ついに五百年の眠りからリザレリス王女が目覚められたと。
その間、当のプリンセス本人は現実についていけず、ただただ狼狽するのみだったが。
「王女殿下。どうかお言葉を」
彼女の隣に寄り添って立つ、この眼鏡をかけた長身痩躯の年配紳士はディリアス。彼は王女の側近となる人物だ。
「そ、その、ディリアス」
「なんでございましょう」
「い、いや、なんでもない」
リザレリスの頭の中の混乱は一向に収まっていない。
前世で刺されて死んだ男が、どこぞのお姫様に転生した。それは理解した。だが、理解はしても受け止めきれていなかった。
「......てゆーか、なんで前世の記憶も人格もそのままで、このリザレリスとかいう女のそれはまったくないんだ?」
思わず口をついて出てしまう。はたとしたリザレリスは、ディリアスの顔を見上げた。
ディリアスはきょとんしている。「王女殿下。なんとおっしゃいましたか?」
彼の顔を見つめながらリザレリスは逡巡するが、すぐに覚悟を決めた。というより、すでにもう面倒臭くなったのだ。
「俺の言葉だけど......」
リザレリスはすっくと立ち上がった。一同の視線が、彼女の光輝で麗しい姿へ集中する。
美しい黄金の長髪に薔薇のような紅い瞳。それらをより際立たせる透き通るような白い肌。まだ十代のうら若き乙女に見えながら妖艶さも秘める比類なき美貌。
まさしく、彼女こそ伝説の吸血鬼の娘、吸血姫(ヴァンパイアプリンセス)だといって誰もが疑わないだろう。
「......」皆、息を飲んで彼女を見守っている。
リザレリスは大きく息を吸い、口をひらく。
「俺、なんにも覚えてないんですけどー!!」
広々とした玉座の間に、王女の声がトランペットのように響き渡った。
シーン。
水を打ったような静寂。この場にいる誰もが、虚をつかれて固まっていた。
「あ、あの、王女殿下」
ややあってから、おそるおそるディリアスが声をかけた。
リザレリスは彼に一瞥をくれてから、再びキッと前を向く。
「だから俺はリザレリスなんて姫様のことも、このブラッドヘルムとかいう国のことも、何もかもなんにも知らないんだよー!!」
隣のディリアスがうろたえる中、もはやリザレリスは完全に平常心を失っていた。
「はあ?吸血鬼?なんだよそれ!意味わかんねーわ!五百年も眠ってたって、じゃあ俺は今いったい何歳なんだよ?」
「お、王女殿下、どうか落ち着いてください」
「うるせー!てゆーか、そんなに長く眠ってたくせに、なんでいきなり起きてフツーに活動できてんだよ!何もかもわけわかんねーよ!」
「お、王女殿下がご乱心だ!!」
ディリアスと他数名の重臣たちが慌ててリザレリスを取り囲んだ。
「は、離せよ!」
「王女殿下!いったんお退がりください!」
「いいから離せって!俺はプリンセスなんだろ!?」
「と、とにかく殿下を自室までお連れしろ!」
ディリアスの指示の下、重臣たちの手により、リザレリスのわめき声が玉座の大広間から遠ざかっていった。
取り残された臣下の者たちは茫然としていた。
「......お、王女殿下は、記憶を失くされたのか?」
この時、王女殿下が女王陛下に即位することが棚上げになったのは言うまでもない。
「私としたことが、つい舞い上がって先走ってしまいました。大変申し訳ございませんでした......」自室に戻ってベッドに腰かけたリザレリスは、中年紳士のディリアスから深々と頭を下げられた。彼のロマンスグレーの頭髪がリザレリスの瞳によく映る。「よくよく考えればわかることでした」むっつりとしたまま答えないリザレリスに向かい、ディリアスが顔を起こした。「リザレリス王女殿下は五百年間も眠ったままだったのです。記憶を失くしていたとしても不思議ではありません。たとえ記憶を失くしていなかったとしても、混乱は避けられなかったでしょう。五百年前がどうだったのか。私は残された記録によってしか知りません。ですので実際にどうであったのかはわかりませんが......きっと今とは世界も大きく異なったのでしょう。とりわけブラッドヘルムは......」そしてディリアスは床へ膝をつくと、リザレリスへ、知るべきと思われることを語った。世界のこと。吸血鬼のこと。ブラッドヘルムのことを......。「......ということです。臣下の者たちへリザレリス王女殿下をお披露目する前に、こうして私から殿下へきちんと説明すべきでした。本当に申し訳ございませんでした」ディリアスは再び頭を下げた。しばらく彼を見つめてから、不意にリザレリスがすっと立ち上がった。ディリアスは顔を起こす。「王女殿下?」リザレリスは部屋の中を進んでいくと、姿見の鏡の前で立ち止まった。「これが、今の俺......」正直、しっかりと説明を受けたところで、やはり受け止めきれない。質問したいことも山ほどあれば、頭に入ってすらこないことも多くある。そもそも、考えるのも面倒だった。この世界がどうとか、国がどうとか、吸血鬼がどうとか言われても、他人事のようにどうでもよく思える。だって自分は日本人の青年で、女にモテて、日々を充実して過ごしていたんだ。最後の最後で女に刺されてしまったけれど、それまでは本当に楽しくやっていたんだからーー。リザレリスの頭と心には、未だに前世への未練が色濃く残っていた。だが、鏡に映る絶世の金髪美少女をじっくりと眺めているうちに、ふと新たな想いが湧き起こってくる。「美人のお姫様、か」実際の吸血鬼というものがどんなものなのかは、まだよくわからない。だけど、美人のお姫様の人生というのは、悪くないんじゃないか
【2】桟橋のように長々と伸びたテーブルの上座(お誕生日席)に着いたリザレリスは、豪勢な料理の数々が運ばれてくるなりガツガツと食べ始めた。「うん。まあまあイケるな」野菜から肉から次々とむさぼっていく彼女の姿は、王女というより育ち盛りの体育会系中学生男子のようだった。お行儀もお作法もあったもんじゃない。側近のディリアスをはじめ家臣たちは皆、暴食のプリンセスを唖然として見守っていた。「ふーっ、食った食ったぁ」食事を終えたリザレリスは、グダっと背もたれに体を預けてディリアスへ視線を投げる。「食後のデザートは?」 そんなおてんばプリンセスの態度に対しても、中年紳士ディリアスの対応はやけに落ち着いていた。「もちろんでございます。只今ご用意いたします」ディリアスが部下へ目配せをし、部下は速やかにどこかへ移動していく。しばらくして部下が戻ってくると、リザレリスは「ん?」となる。「王女殿下。食後のデザートでございます」ディリアスがそれを、着座するリザレリスの横にひざまずかせた。それは食べ物にあらず。王女へ差し出されたのは、端麗なる女のように美しい、十五歳の銀髪の少年だった。「お、おまえはたしか」リザレリスは彼を知っていた。「そうだ。俺...じゃくて、わたしが目覚めた時に最初に目にしたヤツだ」「さようでございます。私のような者ごときが王女殿下を驚かせてしまい大変申し訳ございませんでした」美少年はうやうやしく受け応えた。「で、コイツがなんなの?」リザレリスが尋ねると、ディリアスはそっと美少年の肩に手を置いた。「王女殿下のためにご用意いたしました、極上のデザートでございます」「は?」リザレリスは首をひねる。「意味がわかんないんだけど」「こちらはリザレリス王女殿下が目覚めた時のためだけにご用意していた、この時代のこの国でご用意できる最高の生け贄でございます」ディリアスの眼鏡の奥の眼が妖しく光った。「い、いけにえ?」その強烈なワードに思わずリザレリスはオウム返しをしてしまう。「こちらの者、エミル・グレーアムは、女性吸血鬼が元来好む若くて美しい人間の男性ということのみならず、類い稀な魔力も保有しております」ディリアスが説明すると、エミルという名のその美少年は、細長いまつ毛の間から優しそうな大きい目をリザレリスへ向ける。容姿端麗なる女のような
「えっ、わたし、なんかマズった?」リザレリスにはなんの悪気もなかった。むしろ他意もなく素直で正直と言えよう。「王女殿下」気を取り直したディリアスは改まった口調で答える。「我々は、初代ブラッドヘルム王が何処へと去っていってしまってから五百年間、別の王を立てながらもリザレリス王女殿下の目覚めをずっと信じ、何代にも渡って待ち続けていたのです」「そ、それはさっき聞いたけど」「なぜ我々がそこまで、眠り姫となった王女殿下の目覚めを待ち続けたと思いますか?」「な、なんだろ。特別だから?」「さようです!リザレリス王女殿下!貴女は特別なのですよ!」急にディリアスのスイッチが入った。顔つきの変わった中年紳士にリザレリスはにたじろぐ。「は、はい?」「ブラッドヘルム王なき後のこの国を、再び誇り高き吸血鬼の国として再興できるのは、正統なプリンセスである貴女しかいないのです!」「は、はあ」「今の王女殿下にはおわかりにならないでしょう。現在の〔ブラッドヘルム〕の窮状を」ディリアスの表情に深刻さが帯び始める。「きゅうじょう?貧乏ってこと?」リザレリスの質問に、ディリアスは重々しく頷く。「これはまだ説明を控えていたことです。王女殿下がショックを受けてしまわれないために」「えっ、ひょっとしてこの国、ヤバいの?」リザレリスの胸に不安が立ちこめる。「はい。現在、我が国の経済は逼迫しております」「ま、まさか、破綻寸前とか?」「長年の友好国であった〔ウィーンクルム〕との貿易が完全に打ち切られてしまったなら、あるいは......」ディリアスは明言を避けた。だが意味は明白だった。リザレリスは落ち着きなく視線を彷徨わせてから、ガタンと立ち上がる。「じゃあ俺...わたしは、今にも滅びそうな、没落した吸血鬼の国の王女様ってこと?」リザレリスの辛辣な物言いにも、ディリアスは頷くしかなかった。「滅びると決まったわけではありませんが......」「いや、ちょっと待ってくれ」ここでリザレリスは頭の中で話を整理する。状況はわかった。しかし、伝説の吸血鬼の娘の正統なプリセンスが復活したというだけで、果たして国が再興できるものなのか?「王女殿下」そこへリザレリスの心中を察したようにディリアスが言う。「我々ブラッドヘルム国民にとって、初代国王ヴェスペリオ・リヒャルト・ブラッドヘルム
大理石の豪華な風呂から上がったリザレリスは、侍女たちから服を着せられるのを必死に耐えていた。「これぐらい自分でやるし......」「何をおっしゃいますか。記憶を失っていらっしゃるとはいえ貴女は王女殿下なのですよ」特別侍女長のルイーズがリザレリスに注意を入れる。まるで女教師といった雰囲気の彼女は、特別にリザレリスの専用世話係に急遽抜擢されたベテラン侍女である。すでにリザレリスは彼女のことを苦手に思っていた。「てゆーか俺...わたしって、王女殿下なんだろ?だったらあんたより偉いってことなんじゃないの?」リザレリスがうんざりした口調で言うと、ルイーズの眼光の鋭さが一段と増した。「だからこそなのですよ!」「どゆこと?」「貴女は高貴なる王女殿下。正統なるヴァンパイアプリンセス。相応しい振る舞いをしていただかないと我々が困ってしまうのです」「ヴァンパイアプリンセスの振る舞いって、血をすすること?」リザレリスは悪戯っぽくペロンと舌舐めずりをして見せた。そんな彼女のじゃじゃ馬っぷりに、ルイーズの表情はいかにも引き締まる。「これから私がきっちりと仕込んで参りますので、覚悟なさってください」「うわぁ、シャレも通じないのか」「......なんでございましょう」「なんでもないですよーだ。じゃ、もう服着たから部屋に戻るぞ」「髪の毛がまだです!」「まだやんの??」「きちんとお手入れいたしませんとせっかくの美しいブロンドヘアーが台無しになってしまいます!」「いいじゃん、もう寝るだけなんだし」「今日のためだけではありません!」「うわぁ、メンドクサイ......」「はい!?」「いえ、なんでもないっす......」鬼のマナー講師とでも言わんばかりのルイーズの様相は、ますますリザレリスをげんなりさせた。・寝室に戻ってきて一人になると、リザレリスはふかふかの大きなベッドに顔からぼふんと倒れ込んだ。シーツも布団も枕も新調されていた。「王女様って、なんか疲れるなぁ」もぞっと寝返りを打って仰向けになり、自分の胸を触った。「風呂入って裸を見ても全然興奮しなかった。自分の体だからなのか、女になっちゃったからなのか。自分で言うのもアレだけど、前世じゃ女好きだったのになぁ〜」なんだか途端につまらない気分になってくる。なんなら男でも誘惑してみようか。そんなことさえ
これから秘密の夜会へと出かけるように寝間着から着替えたリザレリスは、隙をついてこっそりと部屋を忍び出た。コソドロのようにひたひたと、薄暗くなったヴァンパイア宮殿の、広い廊下と階段を進んでいく。その途上だった。リザレリスは、前方にある一室の前でディリアスの姿を視認すると、柱の影にサッと身を潜めた。そこから彼女は、死角となる位置を見極めながら、そ〜っと近づいていき、耳をそばだてる。なぜ彼女は、そんな危険な行動を取るのだろうか?「俺...わたしのことを、話しているよな......?」そう。ディリアスは何やらただならぬ雰囲気で小太りの重臣と話し込んでいるのだが、その内容はリザレリスについてのことらしかった。しかも聞こえてくる会話の断片から推察するに、王女を議題にした会議後だったようだ。終了し退室してからも深刻に話し込むのは、その会議が相当に紛糾したからであろうか。 「まあ王女だから、そりゃ重臣たちで会議もするよな......」そう考えて納得するも、リザレリスはどこか腑に落ちない。というのも......。ディリアスによれば、現在の〔ブラッドヘルム〕は王不在だという。つい先日、王が崩御してしまったからだ。なので、数年前に王が病床に伏してから今に至るまで、ディリアスが摂政として内政も外交も取り仕切っていた。そして王に世継ぎはなく、未だ次期国王も定まっていない。まさにそのタイミングで、リザレリスは目覚めたのだった。これは〔ブラッドヘルム〕にしてみれば、天佑と言っていいだろう。さて......。このような状況で、目覚めた王女についての会議を、果たして王女抜きでやるだろうか?「くそ。もっと近づかないとちゃんと聞こえないな......」そう思ったリザレリスが、これでもかと耳を伸ばした時だった。「それでも王女殿下の政略結婚には最大限慎重であるべきだ!」ディリアスが語気を荒げて大声を上げた。次の瞬間、リザレリスの口から無意識に声が洩れる。「えっ??」即座にリザレリスはハッとして、両手で口を塞いだ。それからそっと後ずさると、その場から離れようときびすを返した。とその時。彼女の視界の先に、ちょうど廊下の角から曲がって出てきた侍女長が現れる。「王女殿下?」動こうとするも間に合わなかった。ルイーズはリザレリスの姿を確認するなり、呼びかけながら近づいてきた。
「失礼いたしました。王女殿下」そう言ってエミル・グレーアムがリザレリスを降ろした場所は、城の屋上だった。あまりに速すぎて、どうやってここまで来たのかリザレリスにはわからなかった。「い、今のはなんだったんだよ。スゲー動きだったぞ?」「私の特技のひとつです」「特技?」「ディリアス様からご説明はございませんでしたか?」「......あっ、ひょっとして魔法とか?」「はい」「へー、そうだったのか」リザレリスはこの辺のことをあまり深く考えていない。おそらく前世の人格のせいだろう。「驚かせてしまいまして申し訳ございません」エミルは深く頭を下げた。「もういいよ。てゆーか、こんな所に連れてきてなんのつもりだよ。意味わかんねーよ」さっそくリザレリスが文句をつける。エミルは申し訳なさそうにはにかんで返してから、手すりに寄
「!!」エミルは大きく目を見開いてから、再び目を逸らした。言葉が返せないのは、相手が王女だから否定できないのか、図星だから否定できないのか。いずれにしても、エミルの彼女への想いには、並々ならぬものがあるのは間違いなかった。「ふーん。じゃあさ。こうしたらどうだ?」次にリザレリスの執った行動は、エミルを驚愕させる。「お、王女殿下、い、いったいなにを......」エミルの狼狽は極限に達した。なぜなら彼の手が、王女の胸のふくらみに当てられたからだ。「おまえ、わたしとヤリたいんじゃねーの?」リザレリスの意地悪い魔女のような眼差しがエミルに突き刺さる。「お、おやめください」もはやエミルにはそれしか言うことができない。「ヤリたいかヤリたくないか、どっちだよ」「お、おやめください」「どうせ男はヤリたい生き物なんだ。
エミル・グレーアムは、生まれながらにして魔力を有する特別な人間だった。そんな彼が、この時代の「吸血姫が目覚めた時のための生け贄」に選ばれるのは当然だったと言える。しかし実際に生け贄に選ばれるまでの、魔力覚醒前夜の幼少期のエミルは、極めて過酷な状況に陥っていた。エミルの両親は、彼が物心ついた頃には亡くなっていた。街中で暴走した馬車に巻き込まれて死んだのである。エミルの記憶に残っているのは、迫りくる暴馬と、自分を抱擁したまま生き絶えた両親の生温かい血と、冷たくなっていくぬくもりだけだった。その後、エミルは唯一の縁者だった叔父のもとに預けられる。財力のある叔父は、以前にエミルの両親が困った時には経済的援助もしてくれた人だった。叔父はエミルを喜んで迎え入れた。なぜならエミルは誰よりも美しい少年で、叔父の知られざる欲望を満たすための極上の果実だったから......。ある日のこと。叔父から秘密の地下室に呼び出されたエミルは、二つの真実を知った。ひとつは叔父の淫らな本質を。もうひとつは、生前の両親が頑なに叔父を引き合わせてくれなかったのは、息子を守るためだったということを。「や、やめてよ、叔父さん!」
「おっちゃん。これはなんだ?」不意にリザレリスが、ある品物を手に取った。それは不思議な薄青色の石を添えたストーンリングだった。「おっ、嬢ちゃん。見る目があるじゃねえか」「なんか特別な指輪なのか?」「それは魔法の指輪だ」「魔法の?」「そうだ」店主のオヤジはニヤリとする。「なかなか手に入らねーんだぜ?」「これでなにができるんだ?」「それは氷のリング。つまり、そいつを使えば強力な氷魔法が使えるってわけだ」「マジか!」「買ってくか?」「欲しい欲しい!」「でも嬢ちゃんは魔法を使えんのか?そんな感じには見えねえが」「えっ、誰でもいいってわけじゃないの?」「魔力持ちの魔法が使える奴じゃないと意味ないんだよそいつは」
入店すると、自然とウキウキしてきたリザレリスは、きょろきょろと店内を見まわした。でもすぐに「あ......」となった。「なあ、エミル」「どうしましたか?」「なんというか、あれだな」 昼間なのに薄暗い店内。埃の被った棚と品々。店の奥に控える店主のオヤジは、座ったままリザレリスたちへ一瞥をくれてから、退屈そうに手元の新聞へ視線を落とした。「ずいぶんと陰気くさいな」思わずそんな言葉が口からついて出てしまったリザレリスだったが、合点がいく。これがディリアスの言っていた「国の窮状」の一端なんだと。「そうだよなぁ」と店主のオヤジが不機嫌そうに口をひらいた。「たしかに陰気くせーよな。以前はまあまあ繁盛してたんだがな」「申し訳ございません。悪気はないのです」エミルが一歩前に出て、リザレリスの代わりに謝罪する。「べつにいい。事実だからな。一時期は〔ウィーンクルム〕からの観光客で溢れ返ったことだってあるんだ」「へぇー、インバウンドってやつか」とリザレリス。「ところが今じゃこの有り様だ。親父の代から続けてきたが、このままじゃ店を畳むことになるぜ」店主のオヤジは新聞をぐしゃぐしゃにしながら吐き棄てた。「そうなんだ......」何を思ったか、リザレリスは陰気な店主につかつかと歩み寄っていく。「リザさま?」心配顔を浮かべてエミルも付き添っていく。「なんだ?嬢ちゃん」店主のオヤジはやさぐれた眼つきで睨みつけてきた。リザレリスはボンネット帽子の下から可憐な顔を覗かせて切り出す。「ひょっとしたら、この辺りの店は全部そんな感じなのか?」「だろうな。それでも開いてる店はまだマシだ。何とか生き残ってるわけだからな。まあでも、地方に行きゃーもっと酷いだろう」「どこもかしこも景気が悪いってことなのか」「一部の金持ち以外はみーんな不況さ。これで〔ウィーンクルム〕との国交が絶たれちまったら、おれたち庶民はマジでどうなるかわかんねえ」「そんなに〔ウィーンクルム〕との国交って大事なんだな」「当たりめーだろ。輸入に輸出に観光に、一体どれだけの影響があると思ってんだ。世間知らずの嬢ちゃんだな」「なるほど。ディリアスやドリーブが言ってたことの実態はこういうことだったんだな」腕組みをしてうんうんと頷くリザレリスを見ながら、ふと店主のオヤジが何かを閃いた顔をする。 「嬢ちゃん
翌日のよく晴れた午後。リザレリスは城門を抜け、街へ飛び出した。昨日の今日で城は何かと騒がしかったが、ディリアスのおかげでこっそりと抜け出すことに成功した。ディリアスいわく、城にいてドリーブ派に接触されるよりは、いっそ外出するのは良い方法かもしれないとのこと。質素な服(といっても小洒落た町娘ぐらいのレベル)に着替え、古風なボンネット帽子を被ったリザレリスは、子どものようにはしゃぐ。「へ〜これがブラッドヘルムの街か〜」王女に転生してから初めての外出。リザレリスはここぞとばかりに異世界というものを満喫できると胸を踊らせていた。もちろん政略結婚の話は気になっていた。しかしこういう時だからこそ外で遊んで気を晴らすのが一番。そう思って彼女は羽を伸ばそうとしているのだ。「城も雰囲気あっていいんだけどさ。なーんか息苦しいっていうか、のびのびできないんだよね」リザレリスは、街の中心街の通りに軒を連ねる店々を興味津々に眺めた。まるで旧時代の、西洋の城下町に旅行にでも来たような気分になり、俄然テンションが上がってくる。ところがだった。 「なんか、やけに人が少ないような?」街の中心部の商店街のはずなのに、閑散としていた。よく見れば、閉まっている店も多い。「定休日なのかな」と呟きながらも、リザレリスの頭の中にはひとつのワードが浮かんでくる。「シャッター街......」だが、せっかく来たのだから楽しまないともったいない。シャッター街ぐらいどこにだってあるだろ。リザレリスは持ち前のテキトーさで気持ちを切り替え、どこか面白そうな店はないかと進んでいった。「おっ、あそこ、なんか気になるかも」ある雑貨屋を見つけ、リザレリスは小走りになると、ふと店前で立ち止まった。それから一歩遅れてきたエミルへ振り返る。彼女の顔は何か言いたげだった。「王女殿下?」「エミルももっと楽しめよ」「私はあくまで王女殿下の護衛です。私などには気にせず楽しんでください」真面目なエミルは微笑み返しながらも仕事の姿勢を崩さない。リザレリスは、ぶぅーっと口を尖らせる。「城では上司もいるからしょうがないだろうけどさ。ここでは他に誰もいないんだしいいじゃん」 「そういうわけには参りません。貴女は王女殿下で私は護衛です」「その、王女殿下ってのもやめてくんないかな。なーんかやりづらんだよなぁ」「それ
【4】リザレリス王女とウィーンクルム王子の結婚の話題は、まるで既成事実かのように国中へ広がっていってしまった。ドリーブはマスコミにも強いパイプを持っている。彼の息のかかった新聞記者たちが動いたに違いない。「このような事態になり、大変申し訳ございませんでした」夕陽が射しこむ王女の自室で、ディリアスはリザレリスに深い謝罪を示した。これは完全に失態。ドリーブにいいように出し抜かれてしまった。頭を垂れながらディリアスは歯ぎしりを抑えられない。このような状況になってしまった以上、表立って政略結婚に反対することも難しくなってしまった。ここでディリアスが反対意見を表明した場合、ドリーブの張る論陣はこうだろう。「ディリアス公は自身の権力が揺らぐのを恐れて王女殿下の結婚に反対している。国家の窮乏も顧みず、己の権力欲のためだけに」実に巧妙で狡猾。ディリアスは追い詰められているのだった。しかもドリーブの、政略結婚を正当化する理論自体は間違ってもいない。王女殿下が目覚めてから僅かの間によく練り上げて実行したなと、ディリアスは感心すらしていた。事実、思想信条や人格は別にして、ドリーブは極め
広々とした玉座の間は、にわかにザワついてくる。重臣たちの表情は二通りに割れていた。微笑を浮かべるドリーブ派と、険しい顔をするディリアス派(伝統派)に。昨夜の会議においても、伝統を重んじるディリアス派は王女の政略結婚には極めて慎重だった。一方でドリーブ派は、使える手段は何でも使うべきという姿勢だった。両派とも、対立するのは今に始まったことではない。もはや国王の権力が衰退してしまったこの国では、力のある閣僚同士の争いの勝者が、国家運営を決定付けていた。「もう解散だ!」たまりかねたディリアスが手を挙げて閉会宣言を告げた。閣僚とはいえ、今のディリアスは国王代理。客観的にも実質的にもドリーブよりも立場が上だ。それでも臣下の者たちは動こうとしなかった。ドリーブの提案に興味を示さざるを得ないのだ。現在の国の窮状は誰もがよくわかっている。王女の政略結婚が、現状を打破する有効な手段であることは否定できない。「ドリーブ侯!具体的にどのように実現するのですか!?」しまいにはそんな声までもが飛んできた。「五百年間の眠りから覚めた唯一の正統なる王女殿下を、友好国とはいえ他国の王子と結婚させるなど許されるのですか!?」ディリアス派からも声が上がる。これを皮切りに場内は騒然となった。当のリザレリスは「政略結婚ってマジバナだったのか?」とディリアスに詰め寄る。「王女殿下。違うのです」ディリアスは否定するが、もはや彼にも場を抑えられない状況になっていた。策略通りのドリーブは、王女殿下の面前で勝ち誇った顔で立ち上がり、振り返った。そして紛糾する玉座の間にいる全員に向かい、大演説をぶつ。「ディリアス公をはじめとした伝統派は、王女殿下の政略結婚には反対です。わかります。わかりますよ。私にも我が国の伝統を重んじる心は当然あります。どんなに国が衰退しても、守らなければならないモノというのは必ずあります。外交を担うものとして他国へ訪問する機会の多い私だからこそ思います」巧妙なドリーブは、決してディリアス派を真っ向から否定も批判もしない言い方を心得ていた。よく言えば相手の尊重であり、悪く言えばズル賢い。「しかし皆さん。よくよく考えてみてください。我が国の建国の歴史を。そもそも我が国は、当時のウィーンクルム王女と婚姻を結んだヴェスペリオ・リヒャルト・ブラッドヘルム王によって建国された
そんな時だった。「なんだ?」と隣のディリアスが何かに反応した。何かと思いリザレリスは視線を彷徨わせる。すると、玉座に向かって三人の重臣が歩み出てくるのが目に入った。「いったいどうした、ドリーブ卿」ディリアスが声をかけてもそれには応えず、三人の重臣たちは王女の面前まで来て跪いた。ディリアスは怪訝な表情を浮かべる。「ドリーブ卿、なんのマネだ」「ディリアス公。私は王女殿下の、そして我が国の未来のために、こうしております」三人の真ん中にいる、ドリーブという名の中年男が口をひらいた。この小太りの侯爵は〔ブラッドヘルム〕の外務大臣を務める重臣で、狸のような狡猾な面構えが印象的だ。ディリアスより位は下だが、手練手管の政治力を駆使し、彼に匹敵する確実な勢力を築いている。「こんなタイミングでわたしになんの用だ?」リザレリスがドリーブに言葉をかけると、ディリアスが割って入ってくる。「王女殿下はもうお退がりくださいませ」「なんでだ?こいつがわたしに話があるんだろ?」「さようでございます!私は王女殿下にお話しがあるのです!」してやったと言わんばかりにドリーブが声を上げる。「ドリーブ卿。王女殿下に対して失礼ではないのか」ディリアスの口調が厳しいものになる。リザレリスは小首を傾げる。「どうしたんだよ、ディリアス?」「王女殿下。ここは私の言うとおりに...」「べつに話を聞くぐらいいいだろ?」「ですからここは...」なぜか執拗に食い下がるディリアスに、リザレリスは苛立ちを覚える「なんでそこまでおまえに指図されなきゃならないんだよ」王女の言葉にニヤリとしたドリーブは、大きく息を吸い、ここぞとばかりに声量たっぷりに口を切る。「王女殿下!」「なんだよ。声デカいな」リザレリスはディリアスを制して話を聞く姿勢を見せた。ドリーブは心の中でよしと呟く。「今、我が国は大変な状況にございます!」「経済が逼迫してるらしいよな」「五百年間の眠りから覚めたばかりの王女殿下には、まだその実情まではおわかりにならないかもしれませんが、これはまごうことなき事実です。この点について、誰も意見の相違はないでしょう」ドリーブはディリアスに一瞥をくれる。これにはディリアスも頷くしかない。確かな事実なのだから。「それで、このような衆目に晒された場所で、ドリーブ卿は王女殿下に対し何を
【3】「吸血姫の復活だぁー!!」翌日は朝からお祭り騒ぎとなっていた。昨日もそうだったが、今日は熱気の度合いが違う。『五百年間の長き眠りからの吸血姫の復活』それが真の意味で成された。昨日のリザレリスの醜態は完全に覆された。赤飯を炊けー!という叫びが聞こえてきそうな城内の盛り上がりは、またたく間に国中にも波及していった。「な、なんか、ハズいんだけど......」再び玉座に座らされたリザレリスは、肩をすぼめてうつむいた。王女の隣に寄りそって立つディリアスは感慨深く息をつく。「本当に、良かったです」同様に玉座の御前に並ぶ廷臣たちもうんうんと頷く。ますます戸惑いを募らせるリザレリスは、助けを求めるようにディリアスの腕を掴んだ。「な、なあ。あいつはどこにいるんだ?」「あいつ、とは?」「エミルだよ」「彼はまだ医務室で休んでいるはずですが」「本当に大丈夫なのか?」「ええ。問題はございません」「なら、いいけど」「気になるのですか?」「だ、だって、俺...わたしが血を吸ったから」「それが生け贄としての彼の役割なのです」「そ、そりゃそうだけど」「お気に召したのですか?」「お、お気に召したっていうか、あいつイイ奴っぽいし」リザレリスの言葉に、ディリアスの眼鏡の奥の目がキランと光る。「王女殿下がお望みなら、彼を男妾にしていただいてもよろしいのですよ」「だ、だんしょう??」聞いたことのない言葉だったが、リザレリスはすぐに意味を理解した。彼女に宿る前世の男は遊び人。物事を深く考えない割には、そういうモノへのアンテナだけは敏感だった。「そ、それは......」リザレリスは変な気分になる。女に生まれ変わったばかりの彼女には、まだ女としての心構えができていない。だからこそ昨夜「政略結婚」というワードを耳にして、生粋の女以上に気が動転してしまったとも言える。しかし今のリザレリスの心の中には、また別の感情も存在していた。「エミルには、そういうのは違う気がする......」リザレリスは神妙に言った。それは女遊びに明け暮れた前世の人格から出た心の声だった。前世でも、遊び人だったからこそ「遊んではいけない娘」は避けていた。それは危機管理であり、遊び人なりの一応の良心でもあった。とはいえやがてはミスを犯し、最終的には恨まれて刺殺されて転生して今
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「それ以来、ディリアス様は入室を許してくださいました。それも理由があってのことではありますが。そうして私の心は......その日から王女殿下の美しい寝顔を見ることにより、平穏さを保つようになったのです」......語り終えたエミルは、もう死んでもいいとでも言いたげに、感極まっていた。夜空には煌々と満月が浮かび、数えきれない星々が瞬いている。夜風がリザレリスの頬をそっと撫でた。その時、風に飛ばされたしずくがきらめいた。「お、王女殿下!?」エミルは、ハッとする。リザレリスの頬に一筋の涙が光っていたから。「あ、あれ?」リザレリスは頬をぬぐう。自分でも気づかなかった。ただ、ひどく悲しい映画を観た直後のような脱力感に満たされていた。遊び人だった前世の人格にも、このような感受性は備わっていた。むしろ案外涙もろいところもあった。なので、エミルの話は少々刺激が強過ぎたのかもしれない。「も、申し訳ございません。私がつまらない話を長々としたばかりに。つい王女殿下の前で舞い上がり過ぎてしまいました」どうして良いかわからず、エミルは深々と頭を下げた。まさか自分ごときの話に、王女殿下が涙を流されるわけ